災害から命守るため「想像を」

風化懸念の中 若い世代に期待

宮城・閖上で伝承続ける丹野さん

震災11年 人々の思い②

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 今年3月11日、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で開かれた「追悼のつどい」。ハトをかたどった白い風船が、一斉に空に吸い込まれる。丹野祐子さん(53)は、ゆっくり飛んでゆく風船をその目で見守った。東日本大震災の津波で亡くした長男の公太さん(当時閖上中1年、13歳)に贈ったのは、「たまには帰っておいで」というメッセージ。「まさか津波が来るなんて夢にも思わなかった」とあの日を悔やむ丹野さんは、震災翌年から語り部として伝承を続ける。いまだ2000人以上の行方不明者の家族に思いを寄せながら、「今は『震災後ではなく、次に起こる震災の前』という自覚を、私たちは持っていなければならない」と力を込めた。

「こんな津波が来るなんて夢にも…」

飛ばしたハトの風船を見つめる丹野祐子さん(中央の女性)=2022年3月11日午後2時58分、宮城県名取市閖上地区「閖上の記憶」前で、大森遥都撮影

 11年前の3月11日は、今年と同じ金曜日だった。

 当時中学3年生だった長女の卒業式があった。式の後、謝恩会を開いていたとき、地震が起きた。子供たちの買ってもらったばかりの携帯電話から、一斉に緊急地震速報が鳴り出したのを覚えている。震度6強の揺れはしばらく続き、直後、東北の太平洋沿岸に大津波警報が発令された。

 「警報が出たことは知っていた。でも『ここには津波が来ない』って、誰もが信じていた」。丹野さんがそう信じていたのは、閖上には大きな津波は来ないという「安全神話」があったからだった。震災の約1年前にあったチリ地震の津波などで、大きな被害はなかったことも影響した。丹野さんが住んでいた地区でも、地震や火事を想定した防災訓練は行われていた一方、津波を想定したものは実施されていなかったという。「まさかこんな津波が来るなんて、恥ずかしいけど夢にも思わなかった」と悔やむ。

 津波は地震の1時間6分後、閖上を襲った。丹野さんが避難した閖上公民館は、1階天井まで浸水。急いで2階に逃げ込んだ丹野さんと長女は助かったものの、離れたところにいた公太さんは津波に巻き込まれたという。「助けてやれなかった」。遺体安置所で無言の再会をしたのは、2週間以上経ったあとだったという。

後絶たぬ災害「自分ごとのきっかけが私の話なら」

丹野公太さんら14人の名前が刻まれた慰霊碑。触ってほしいとの思いから角のない形になっている=2022年3月10日午後3時31分、宮城県名取市立閖上小中学校で、大森遥都撮影

 写真も、へその緒も、鉛筆も津波で失ってしまった。仮設住宅入居などの手続きの際、住民票を取得するため役所に行き、あわせて戸籍も取得しようとしたところ、公太さんの戸籍の上に、死亡を表す「✕印」が書かれていたのも目にした。「子どもたちが生きていた証がなくなってしまったのがすごく悲しかった」

 「私が死んでも、みんなが震災のことを忘れたとしても、この世に(子どもたちが)間違いなく存在していたということを忘れないでほしい」。そんな思いから、11年のうちに同級生の遺族らと「遺族会」を結成した。公太さんを含め震災で亡くなった中学生14人の名前を記した慰霊碑は、12年3月に建立。閖上中は震災当初の場所から内陸部に移転し、それに伴って慰霊碑も移設させた。「ここに14人がいたんだ、ということを肌で感じてほしい」との願いは今も変わらない。

 震災翌年、当時の閖上中学校近くに開所した伝承施設「閖上の記憶」で、語り部を始めた。「あの日を語ることのできる大切な場所」と誇る場所だ。

 当初、丹野さんは「私の経験は私だけが知っていれば良いし、次に繋げる必要なんてない」と考えていたと明かす。しかし、津波に限らず自然災害は後が絶たない。「もう2度と同じような悲しいことが起きないのならば、私は喋る必要がないでしょう。でも、(自然災害は)また繰り返されてしまう。そう考えたとき、他人事じゃないんだと気づいてもらいたいと思った」と訴える。「『自分ごと』として考えてもらうきっかけが、私の話であれば嬉しいと思うんだよね」

2000人以上未だ不明「震災の話ができる場所守る」

 今年の3月11日で震災からは11年が経った。記憶の風化が懸念されるが、丹野さんは閖上に来る若い世代がいることを前向きに捉える。修学旅行で被災地を訪れる学生も多い。

 「私は妖怪ではないから、これから何十年と生きられないじゃない? でも、若い人たちが私たちからバトンを受け取りたい、って志願してくれているわけ。そんなに嬉しいことはないよ」

「追悼のつどい」で飛ばされたハト形風船には、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、平和を願う言葉が書かれたものも多かった=2022年3月11日午後2時55分、宮城県名取市閖上地区「閖上の記憶」前で、大森遥都撮影

 境になったのは「震災10年」の昨年(2021年)だったという。「それ(震災から10年になる)以前は、彼ら(若い世代)の記憶の中に震災のことがあるから、あえて話を聞く必要が無かったのね。でもいま来てくれるのは、記憶にない世代が多い。だからこそ、『10年経ったから終わり』ではなくて、『10年経ったから再スタートを切らなきゃいけないんだ』って思ったんだよね」。

 丹野さんは、未だ2523人(22年3月時点での警察庁まとめ)いる行方不明者の家族にも思いを寄せる。「生きているのか、亡くなっているのかすら分かっていない行方不明の方の家族にとっては、まだ「震災」は始まってすらいないんだよね」とおもんぱかる。「もう震災は終わった」と思われたら悲しいでしょう。その家族たちが『震災の話をしたい』と思ったとき、それができる場所がなかったら残念だろうから、この場所を守っていきたい」と決意を口にした。

「震災後でなく震災前」 自覚持たねば

 「今は震災の後ではなく、次に起こる震災の前。その自覚を私たちは持っていなければならない」と丹野さんは力を込める。このことに気づかせてくれたのは、丹野さんの話に耳を傾けていた人だったという。「私自身もハッとしました。過去のこととして話していたことが恥ずかしいなって」

 首都直下地震の数十年以内の発生も懸念されるなど、自然災害そのものを防ぐことはできない。「でも、災害から自分や家族の命を守ることはできる。だから想像を働かせてほしい」と丹野さんは伝える。「地震が起きても(落下物から)隠れれば助かるし、高いところに逃げれば津波は来ない。それを10年前は怠ったからあの結果になった。今なら逃げる。だって想像することができるわけだから」