「妻の名字にして30数年たった今はどうってことないよね、大変と感じたのは当時だけで後は流れていく感じ」
三重県四日市市に住む加藤保彦さん(60)は笑顔で語った。保彦さんの旧姓は山本。妻、小百合さん(58)との結婚を機に苗字を変える決断をした。日本の結婚制度は夫婦が同じ名字にすることを義務づける。夫と妻、どちらの名字にすることも法律上は自由だが、厚生労働省「婚姻に関する統計」によると、現実には妻の名字を選ぶ人は2015年の数字で4%にとどまる。保彦さんもその一人だ。
妻との出会い 人生の分岐点に
保彦さんは兵庫県淡路島で育った。両親と弟との4人家族だ。大学進学を機に上京し、卒業後は東京の車載機器メーカーに就職した。
1986年、ごく普通の会社員生活が大きく変わっていくことになる。小百合さんとの出会いだ。
二人は共通の知人を介して出会った。保彦さんが大学時代の友人に誘われ、三重県に遊びに行った際、小百合さんと初めて顔を合わせた。「素敵な方だと思いましたよ」。保彦さんは当時のことを恥ずかしそうに話す。
すぐに三重と東京で暮らす二人の交際が始まった。
携帯電話が普及していない当時、二人をつないでいたものは保彦さんが生活していた寮の固定電話だった。限られた時間の中、唯一電話ができるのは保彦さんが仕事を終え寮に帰宅する午後9時過ぎ。この時間に二人は電話で繋がっていた。
約半年間の遠距離生活を経て、2人は結婚を決めた。東京の会社を辞め、小百合さんの待つ三重県へ行く覚悟を決めた保彦さん。大きな決断の中に秘められていたものは小百合さんを想う強い気持ちだった。保彦さんの人生の大きな転換点が近づいていた。
「長女の旦那は婿養子に入れたい」
二人の結婚に小百合さんの父、清男さんは特別な思いを抱いていた。清男さんは、三重県四日市市にある「竹寿司」初代店主を務めていた。子どもは三姉妹。後継者をどうするかが悩みになっていた。長女、小百合さんに父が願うことは、結婚相手の男性が店の後継者になってくれること。そして名字も継いでくれることを望んでいた。
名字を引き継ぐには、結婚する際に妻の姓を選べば良いが、保彦さんと小百合さんはさらなるステップを踏んだ。いわゆる「婿養子」だ。夫が妻の両親の養子となり、その上で結婚する。戦前の「家」中心の民法では正式な制度だった。現代でも保彦さん、小百合さんのようにこの形を選ぶ人もいる。
清男さんの思いを保彦さんは受け止め、養子に入った子と実子の婚姻について規定されている民法734条に基づき、二人は戸籍上義理の兄妹となったうえで結婚届を出した。
新しい名字で、新しい環境の中で、新しい生活が始まった。保彦さんは三重県で水産会社に約1年勤務し、その後「竹寿司」2代目店主となった。
小百合さんの父、清男さんは保彦さんが来てくれることを「息子ができた」と周りに嬉しそうに話していたという。
父の葛藤
一方、この結婚の形について保彦さんの父、康二さんには葛藤があったという。康二さんの孫、保彦さんの長男である大志朗さんが祖父に代わって打ち明けてくれた。
「結婚を決めた際、祖父は親父に長男として継いでほしかったのに、地元でも東京でもない三重県に養子に入るなんてという気持ち、そして同時に名字がとられてしまうという感覚もあったみたい」
小百合さん、そしてその両親が挨拶に行った当時は、和気藹々と受け入れる雰囲気ではなかったという。
養子として迎えたい願い、「息子が取られてしまう」かのような喪失感、様々な思いが混じり合い葛藤の末、保彦さんと小百合さんは家族になった。
康二さんは今年3月、亡くなった。保彦さんはそこで両親や弟のわだかまりをあらためて考え、これまでの思いとはまた別に「本当に悪いことをしたと思った」と打ち明ける。地元から離れず、そこで就職していたらよかった」という複雑な気持ちも湧いたという。
自由に生きる選択を
竹寿司は現在、大志朗さんが3代目を務める。店は新型コロナウィルス感染症拡大の影響を受けて、売り上げが約50%減少してしまったという。持続化給付金や補助金の制度を利用して、経営を維持している。
大志朗さんはSNSを用いた店のPRや店内の感染対策を徹底するなどの活動を積極的に行っている。そんな息子の姿を見て、両親は「店を続けてほしいと思うけど、何か(ほかに)やりたいと思うことが見つかればその道に進んでほしい」と口を揃えて話す。親が願うことは「長男」という立場に囚われず、自由に生きてほしいということだった。