核の恐怖 語り継ぐ

原爆に家族を奪われ、憎んでもなお向かい合うー田邊雅章さん

被爆者の思い、伝え続ける活動家ー奥野華子さん

993


 77年前、広島に原子爆弾が落とされた。広島市が作成している「原爆死没者名簿」に記載されている人数は、今年8月6日の段階で33万3907名にのぼる。この数字は、被爆の後遺症で亡くなる人を追加することで、毎年増加している。

被爆当時の悲惨な生活

 被爆当時8歳だった田邊雅章さん(84)は、当時の小学生生活をこう振り返った。「学校では鬼畜米英という言葉が合言葉だった。お国のために大きくなり、男は戦地でアメリカ人と戦い、死ぬのが当たり前な時代でした」。
 1945年8月6日月曜日、広島の朝は快晴だった。午前8時15分、上空に閃光 が走った。山口県に疎開していた田邊さんは原爆の直撃を免れたが、原爆が落とされた直後、広島市内に入った。市内に入りあたりを見回すと、木造の家はほとんどが焼けこげていたという。衣食住は「散々たるものだった」と語った。「服はぼろきれくらいだったが、最低限のものはあったと記憶している。食べ物に関してはまるっきりなかった」。眉間に皺を寄せながら、当時を振り返る。「空腹のあまり盗むことでしか生きられなかった」。広島の爆心地から3km離れたところには畑があった。きゅうり、かぼちゃ、トマトなどの食糧が栽培されていた。田邊さん自身、盗むのは良くないことだと思っていた。しかし、生きる上で盗まずにはいられなかった。「棒を持ったいかつい百姓のおじさんから必死に逃げた記憶がある。基本的人権はなく、明日の命が保障されることはない」
 雨が降ったとき、雨宿りしていたビルは骨だけ。2階建てか3階建ての小さな建物だったという。「水は生きる上で必要だった。朝一番、地面に水たまりができていた。その水たまりを吸った時はとても美味しかった」。その水を飲んだ後、激しい体調の悪化を感じ、血を吐くような苦しみを覚えた。核兵器の影響で残留放射性物質が混ざっていたのではないかと感じたという。
 鉄道は原爆が落とされた3日後に動き出した。「汽車の車両に乗っていた人たちとすれ違った時、見える顔は血だらけの人ばかりだった」。そういう人たちとすれ違ったことで、子供ながらに大変なことが起こったのを感じ取ったと語った。

原爆に苦しめられてきた人生

被爆者の田邊雅章さん=2021年8月5日、専修大学文学部ジャーナリズム学科の講義「戦争ジャーナリズム論」で(撮影=瀬口晴義、瀬口さん提供)

 広島市への原爆投下の際に目標地点とされた、相生橋。原爆が落とされた直後、田邊さんはその橋から初めて原爆ドームを見た。頭の部分が人間の頭蓋骨に、その下の構造物があばら骨に見えたという。「理科の授業で人間の頭蓋骨の標本を見たことがあるが、それを焼けただれさせたイメージ。そう思った瞬間、家族は生きていないと悟りました」。原爆ドームになってしまう前、ヨーロッパ風の素晴らしい建物だった広島県産業奨励館を見ていただけに、原爆ドームを見た時にはこの世の終わりだと思ったと語った。
 田邊さんが高校生になった頃、広島で女学院の学生が中心となって原爆ドームを保存しようとする運動が起こった。「その時の印象として『余計なことをするな』と思った。一日も早くあんなものは崩れてしまえと」。そして「自分がひどい目にあったというのが根底にあったからこそ、気楽に平和と口にされるのが我慢ならなかった」と当時は怒りを抱いたことを明らかにした。「原爆は私の全てを奪った。その後もいじめや蔑みにあったり、被爆者に対する差別であったり、原爆のげの字も嫌だった」。声のトーンは大きくなり、早口になる。「原爆というのは私の人生をめちゃくちゃにしただけではなく、その後もずっと尾を引いている。いつも足を引っ張っている。家族全てを失った。それが正直な意見ですね」。
 田邊さんは、今でも忘れられない出来事があるという。それは原爆が落ちて1か月後の話だ。戦後の混乱の真っ最中、駅のホームでは子どもが靴みがきをして、生活するためのお金を稼いでいた。家族を原爆で亡くした子供たちだらけだったと語ってくれた。広島駅の待合室で祖母とおにぎりを食べていた田邊さん。すると、同い年くらいの女の子が物欲しそうな目でこちらを見ていたという。「祖母がほしいのかいと聞くと、女の子はちょうだいといってきた。おにぎりをもらった女の子は美味しそうに食べていた。」と声を震わせながら語った。女の子の両親は原爆で亡くなった。「どうやってきたのと尋ねると、汽車で来たと答えた。祖母がどうしてかと聞くと、親戚に追い出された。出てってくれと言われたって僕にいうんですよ」。女の子は寂しそうに話していたと田邊さんは語る。「次に女の子は祖母に連れてってと言った。話を聞きながら、かわいそうだなと思ったのと同時に、祖母がいるだけで幸せだと思いましたね。」と当時を振り返った。しかし、連れていきようがなく、交番に届けたという。「でもそこで話はおわるんだけど、ずっと僕の頭の中に残っている。広島を訪れるたびにあの女の子を思い出す。特に待合室のあったところを通ると、その時のことをまざまざと思い出します」。これも原爆の悲惨さを物語る一つの出来事だと、目を閉じ、噛みしめるように呟いた。

「再びあの日を繰り返さないために」

 原爆から背を向けていた田邊さんに転機が訪れる。60歳の時に原爆ドームがユネスコ(国際連合教育科学文化機関)から世界遺産に登録されたのだ。不思議と「お前もここまでよく生きてきたな」と親近感が湧いたという。その時ふと田邊さんは原爆ドームが何色であったかに思いを馳せたという。「屋根の色、壁の色、カーテンの色、細部まで手に取るように思い出せた。あの日、どんな人たちがいたのか。どんな仕事をしていたのか。何人が犠牲になったのか、誰も知らなかった。私以前に爆心地に関する情報を伝承しようとした人はいなかった」。その後のことも考えると、私しかいないと思ったと力強く語ってくれた。「そこで今度は真正面から向き合うことを決意しました」。被爆者の高齢化、被爆体験の風化もあり、正確な情報を伝えていくため、爆心地復元プロジェクトに尽力した。かつての街並みを最新の映像技術で色鮮やかによみがえらせ、往時を知る人の証言を重ねて製作する記録映画に取り掛かった。
 「私にとって伝えるとは、答えは一つ。再びあの日を繰り返さないために。そのためには一次情報でなければならない。また聞きではリアリティがない。当人の体験に基づく、真実を伝えることに注力している」。
 そう話した上で「よく若い世代に何を伝えたいかと聞かれるが、真剣に物事について考え、今の幸せを噛みしめ、大切に維持して欲しい」。最後は満面の笑みを浮かべ、笑いかけた。

被爆者の思い、世界に届ける

 今年の6月にウィーンで核兵器禁止条約の第1回締約国会議が行われた。奥野華子さん(21)は赤十字国際委員会のユース代表として会議に出席し、被爆者の声を届けた。
 「私が一番親しくしていた被爆者の方のお姉さんは8月6日の朝に出ていったきり、遺骨も見つからず、まだ帰ってきてない」。夕焼けが嫌いになったと奥野さんに語ってくれたという。「それは当時広島市内が燃えていた様子を思い出してしまうから。他の人から見たら、美しいと思うものを美しく思わせなくしてしまう、核兵器は非人道的な兵器であるということを会議では訴えた。」と奥野さんは語った。しかし、現地に行って考えさせられることもたくさんあったという。「会議の最初のオープニングの時に、スピーチしたのが日本の被爆者ではなく、核実験の被害者だった」。奥野さんは、このことが、日本が核兵器禁止条約に参加していないことと、関係しているのではないかと考えている。「日本が核兵器禁止条約に参加していないことも、関係しているのではないかと考えている。「核実験の被害者の話を聞くことも大事だが、日本が核兵器禁止条約に参加してないことで、被爆者の声が世界に届きにくくなっているのではないかと現地に行って感じた」。表情からはもどかしさが伺えた。
 日本が核兵器禁止条約に参加していない問題について、奥野さんは「日本政府のスタンスとしては、核保有国と非保有国の橋渡しのはず」と述べた上で、日本は核兵器禁止条約に加わる非保有国の声を十分に聞き、伝えることができていないとみる。「アメリカの核の傘の下に入っているというのはあるけれど、非保有国の意見も聞かないと本当の意味での橋渡しにはならない。日本だからこそ、被爆者の方々の知識や経験を伝えていくことができるはず。日本が核兵器禁止条約の会議に参加すれば、議論が進むかもしれないと思う時はある」。ウィーンの会議で日本の若者や被爆者が、日本政府が今回の会議に参加していないことを残念に思うと話したとき、会場から大きな拍手が湧いたという。

思いを途切れさせないために、私たちにできること

被爆者の思いを伝え続ける活動家、奥野華子さん=2020年9月、原爆ドームの前で(撮影=Fridays For Future Hiroshima、奥野さん提供)

 「自分自身の活動力の原動力として、被爆者の方の声を聞いてきた。被爆者の方と同じように話すことはできないが、被爆者の方のお話を伝えるとともに、お話を聞いてどう感じたか。被爆者の方、一人一人のその後の人生について、普段から関わってきたからこそ伝えたい」。生身の人間の話を伝えていくのを大切にしたいと思うとともに、デジタル技術も使って届けていきたいと語ってくれた。
 「今はARのアプリで実際に平和公園を回れるアプリがあったり、YouTubeで被爆者の話を聞ける。オンラインツアーとか、広島に訪れなくても学ぶ機会はどんどん増えている。広島に訪れて学んでほしいけれど、広島以外でも学ぶ環境は整っているので、積極的に学んでほしい。」と奥野さんは力強く訴えかける。
 「一度知った人が伝え続けることが重要になってくる。SNSでも発信していくことで、連鎖が広がっていく。そうして伝えていくことで、自分自身も学び、向き合って欲しい」

風化させず、語り継ぐ

 「最近では被爆した母から聞いた話とか、家族から聞いた話が多い。本人の記憶にはないんだけど、被爆体験が語られている。でも私が小学生の時は、被爆者が当時中学生とか小学生で、直接被爆した体験を聞いていた。そうなると、今と昔では話している内容が少し違う部分がある」。
 被爆者のいない時代がまもなく始まろうとしているからこそ、より核兵器の問題を多くの人が伝えていく必要があると奥野さんは語る。「その多くの人が伝えていく中に自分も入っていく。被爆者の方の体験や核兵器と他の問題のつながりについて発信していくことをこれからも続けていきたい」。