1月1日午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とする大きな地震が起こった。能登地方では断水や停電、建物の倒壊が相次ぎ、多くのけが人や犠牲者を出した。今回の能登半島地震は石川県に隣接する富山県にも甚大な被害をもたらした。中でも能登地方に最も近い氷見市では震度5強を記録し、住民を恐怖に陥れた。帰省中に被災した記者の体験を報告する。
「あれ、でも全然揺れてないね」 次の瞬間
1月1日、テレビを見ているとアナウンサーが石川県能登地方で震度5強の揺れを観測したことを冷静に告げた。
「あれ、でも全然揺れてないね」。能登で震度5強を観測した割に、私が感じた揺れは微弱で、母の香奈子(53)にそう言った瞬間だった。スマートフォン、テレビ、防災無線から一斉に緊急地震速報が鳴り響き、数秒後には感じたことのない揺れが私たちを襲った。
恐怖を煽る地震の「音」
大きく揺れた直後、テレビの電源が切れた。状況が理解できず部屋を走り回ろうとする犬を押さえつけて机の下に潜ったが、机が低く、体全体を隠せない。必死に頭だけを守った。食器が割れる音や、家が揺れるガタガタという音が恐怖を煽った。
体感で2~3分の揺れだった。大きな靴箱が倒れ、2つあるうちの1つの玄関をふさいでいた。慌ててもう片方の玄関からサンダルで飛び出した。「あんたら大丈夫なん」。近所の住民と声をかけあった。
庭の灯籠は全て壊れてバラバラになっていた。斜め向かいの家は石の塀が崩れ落ち、道路に散乱した破片を見つめて住人が頭を抱えていた。年明けの直後に初詣に向かった隣の神社は、石でできた立派な鳥居が根元から折れ、倒れていた。「ああどうしよう。こんなこと初めてや」。向かいに住む女性が絶望に満ちた一言をこぼした。
迫る津波に戦慄 寒さと恐怖の夜
何度も小さな揺れが襲い掛かり、緊急地震速報は鳴りやまない。寒さと恐怖に震えながらスマートフォンを見ると、『石川県に大津波警報』の文字が目に飛び込んできた。全身から血の気が引き、死が頭をよぎった。
母と慌てて近所の高台にある病院に向かった。向かう道は液状化でひび割れ、縁石は斜めに傾いていた。避難する住民が既に列を作り、上まで辿り着けない。犬と大きな荷物を抱えて、歩いて坂を登り、ようやく避難できた。
氷見市は断水の被害に見舞われたが、幸いにも、電気とガスは止まっていなかった。病院内ではテレビや暖房を利用することができたが、犬がいる私たち家族は車中泊を余儀なくされた。
1時間間隔で小さな余震が繰り返される度に目を覚ました。ガソリンを気にして満足に暖房をつけられない車内では、何枚毛布を被っても冬の北陸の寒さは防げず手足は氷のように冷え切った。津波と余震の恐怖に一晩中震えることしかできなかった。
津波警報が津波注意報に変わった翌朝、私たち家族は帰宅した。避難したのは20時間にも満たなかったが、ひどく疲弊した。
強い揺れに身動き取れず 配電盤からは青い光
「長かった。いつまで揺れるんかなと思った。とにかく家のガタガタいう音が怖かった」。氷見市伊勢大町に住む、市内の洋食店勤務の柿本美恵子さん(50)は、当時をそう振り返った。お年玉を持って買い物に出かけた長女が帰宅したのを出迎えると、僅かに地面が揺れた。「いつものやつか」。能登半島で頻発する地震の影響で富山でも何度か小さな揺れを観測していたため、大きな揺れが来るとは思いもしなかったという。しかし、長女が買ってきた服を一緒に見ようと廊下に出た瞬間、震度5強の地震が襲い掛かった。
ラックが崩れ落ち、配電盤から「バシッ」と大きな音がして青い火花が散ったのが見えた。冷蔵庫の扉が開き、家中がガタガタと音を立てた。強い揺れとあまりの恐怖に机の下に入ることもできず、廊下で義父と娘と身を寄せてしゃがむことしかできなかった。
「楽しい時間は一瞬でひどい状況に変わった」。柿本さんは1月1日を思い出しながら、暗い声でそう振り返った。
ひび割れた道 つぶれた家
大きな揺れがおさまり、外へ出ると、周辺住民も皆外に飛び出していた。伊勢大町はすぐそばに海があり、津波警報を知った住民たちがすぐに避難を開始しようとしていた。
「取り敢えず逃げないと」。高台にある市民体育館のふれあいスポーツセンターへ向かおうとした。しかし、住民が一斉に避難し始めたことで道は混雑し、あっという間に渋滞ができていたという。「すぐ出たのにもう渋滞。みんな早かった」。避難に向かう道は液状化でひび割れており、つぶれた家も目に入った。
やっとの思いでふれあいスポーツセンターにたどり着いたが、すでに避難民で一杯になっており、柿本さんたちは入れなかった。仕方なく隣の氷見高校へ避難した。続けて避難してきた住民の中には、氷見高校にも入れず、近くの中学校まで移動する人たちもいた。
夜10時過ぎ、津波警報が津波注意報へと変わったタイミングで帰宅し、別の場所で避難していた夫や息子と再会した。
復旧 年単位よりさらに長く「それでも少しずつ戻り始めた」
帰宅後に家の様子を確認すると、2つある井戸の内のひとつが液状化で泥まみれになっていた。洗濯に使用していた井戸だった。もう片方の井戸が使えたため生活用の水に困ることは無かった。しかし電気ポンプで水をくみ上げていたため、もし停電が起こっていれば水が手に入らなかった。「電気が止まってたら終わりだった」。柿本さんは当時を思い出しながらそう話した。
氷見市内では液状化によってひび割れた道が完全には直りきっていない。車を走らせると「ガタン」と揺れることも多いそうだ。毎日のように防災無線で粗大ごみの収集に関する案内が流れるという。家を壊す人も見られ、問題は山積している。
それでも、断水は解除され、ひび割れた道も応急処置で平らになった部分もある。「復旧は月単位でも年単位でもない(それよりさらに長期にわたる)。でもいつもの生活に戻り始めた」。柿本さんも明るくそう語った。柿本さんの勤務する洋食店は営業を再開し、県外の観光客から「頑張ってください」と声をかけられたり手紙を頂いたりすることもあるという。
「今はちょっとでも希望が持てるなら頑張るしかない」。力強く語る彼女の言葉に、被災地で前を向こうとする人々の姿を見た。