土砂かき分け、娘抱き上げた

3.11大川小遺族 鈴木典行さん

「二度と被害出さぬ」と語り継ぐ

震災11年 人々の思い①

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 東日本大震災の津波で、児童74人、教職員10人の命が失われた宮城県石巻市立大川小学校。現在も校舎は当時のまま残され、震災遺構として被害の大きさを物語っている。当時6年生、12歳で亡くなった鈴木真衣さんの父、典行さん(57)は、「二度とこのような被害を出してはならない」と強く訴え、「語り部」として語り継ぐ活動を行っている。真衣さんと無言の再会をした日からちょうど11年の今年3月13日、鈴木さんはVIRIDISの取材に応じ、大川小の犠牲とその原因、そして今後社会が考えるべきことを詳しく述べた。

遅すぎた初動、誤った避難

大川小周辺の簡略図と児童の避難の足取り
=鈴木さんの話と大川小学校事故検証報告書より山本祐太朗作成

 石巻市立大川小学校(当時)は北上川のすぐそば、海から約3.7km離れた自然に囲まれた場所にある。2011年3月11日午後2時46分、大川小を震度6弱の地震が襲った。揺れが収まった直後、学校側は校庭へ避難を指示。ほぼ同じ頃、宮城県沿岸部に最大6mを予想する大津波警報が発令された。

 子どもたちを校庭に避難させた後、教職員らが話し合ったのは、子どもたちをどうするかについてだった。一部の教員からは裏山へ逃げることが提案されたものの、他の教職員から「山は危ない」と声があがったこともあり、学校側は一旦、校庭にとどまる判断をした。「校庭で次どこさ行こうかと議論が始まったことに問題があるんです」。学校側の初動の悪さを振り返ると、鈴木さんはそう語気を強めた。

 それまでの判断を変えたのは地震から47分が経った午後3時33分のこと。「三角地帯」に避難することになった。学校近くでは比較的高い位置にある場所ではあったものの、北上川のすぐ近くの場所だ。

大川小学校の裏山に設置されている「津波到達点」(白い看板、約8.6m)。人の背丈よりも何倍も高いことが分かる=2022年3月13日午後0時30分、石巻市の旧石巻市立大川小で、大森遥都撮影

 避難を始めてすぐ、津波は襲ってきた。鈴木さんによると、子どもたちは校庭から逃げようとしたものの、フェンスの入り口は一人がやっと通れるほどの広さしかなかったという。子どもたちは学校に隣接する交流会館の駐車場を使い民家の庭先に出て右折。そのまま県道に出ようとしたが堤防を越える津波を見て引き返した。その先は行き止まり。そこで多くの子どもたちが立ち往生したという。

 「先頭を走っていたのは5年生の男子だったそう。(その男子児童が)『これはまずい』と判断し、そばの民家の庭先を通って県道に出ようとしたようです。でも、津波がものすごい勢いで襲ってくるのが分かり、急いで引き返してきたんです。そしてそばにあった裏山を登った」。子どもたちは懸命に山の斜面を登ろうとしたが、陸地に上がった津波は、その子どもたちを襲った。

 避難を始めてから津波到達までわずか1分。「津波が来るのなら、海や川に近づかないのは当たり前。なぜ川に近づいたのか。あってはならない行動をしてしまった」。鈴木さんは、「三角地帯」へ子どもたちを避難させた学校側に疑問を呈した。

「連れて帰れないんです。自分の子どもが見つかったのに」

 鈴木さんが大川小学校に来ることができたのは、震災発生の2日後の3月13日だった。震災当日は大川小の周辺の道路は崩壊。船を出してくれる人を見つけ、小学校に行くことができた。「自宅は被災していませんでした。でも、家族が一人足りない、真衣がいないんです。だから急いで小学校に向かいました」

今も震災当時のまま残されている大川小学校=2022年3月13日午後0時42分、石巻市の旧石巻市立大川小学校で、山本祐太朗撮影

 「『真衣!真衣!』と何度も叫びながら必死に探していました」。学校に着き、消防団員らとともに捜索をしていると、山の斜面で数人の子どもが見つかった。「ここに子どもがいるのではないか」。子どもたちの体を傷つけないよう、スコップは使わず、手で土を掘った。土の中から次々と見つかる子どもたちの中には、鈴木さんが指導していたスポーツ少年団の教え子の顔もあった。「『なんでお前たちがここにいるんだ』と叫びました」。

 「その日の最後、真衣も土の中から見つかったんです」。真衣さんは眼鏡をかけたままの状態で見つかったという。「遺体となって見つかった以上、勝手に連れて帰るわけにはいかない。遺体安置所にしか連れていけないんです」。死因身元調査法によると、遺体が発見された場合には警察などが死亡原因の調査や身元確認を行う。さらに発見した場所の調査などを行うため、遺体は遺体安置所に運ぶことが定められている。そのため鈴木さんらは遺体安置所に遺体を連れて行こうとしたが、近くの道路や橋が崩壊しており通行が難しかった。やむを 得ず寒空の下、小学校の冷たいアスファルトにひかれたブルーシートの上に、遺体を置いていくしかなかったという。

 「連れて帰れないんですよ、自分の子どもが見つかったのに。残酷としか言いようがないです」

大川小にあるモニュメントと、訪れていた家族=2022年3月13日午後0時43分、石巻市の旧石巻市立大川小で、大森遥都撮影

防災マニュアル作成「地域知る保護者加えて」

 震災から3年後に公表された大川小学校事故調査報告書では、学校側のずさんな防災体制が指摘された。大川小は、宮城県が『第三次地震被害想定調査』を基に当時作成したハザードマップでは津波が来ないエリアとされ、地域の避難場所にもなっていた。同報告書によると、平成17〜22年度は、訓練は年3回行われていたという。しかし津波を想定した避難訓練や、災害時に児童を引き取りに来る保護者がスムーズに連れて帰れるようにするための訓練が行われたことはなかった。この態勢が多くの命を奪ったと鈴木さんは指摘する。「2階建ての屋上がない校舎で、海と川が近く、逃げる場所がないんですよ。それなのに避難訓練を行わず、(机の下などへの1次避難、校庭などへの2次避難に続く)3次避難場所が決まっていなかったから逃げ遅れた。避難訓練をやっていれば『次はあそこに行こう』ってなるんです」

一時雨が降っていたが、大川小には多くの人が訪れていた=2022年3月13日午後0時43分、石巻市の旧石巻市立大川小学校で、大森遥都撮影

 当時PTA会長だった鈴木さんは、「防災マニュアルを知らず、学校に意見を言えなかった」と後悔している。「学校の先生は、たいてい3、4年で異動してしまい、地域に詳しい先生はあまりいないんです。だったら、地域のことを知っているPTAや保護者を加えたほうが良いマニュアルができます。これは震災後に強く思ったことです」

被害を出さないため語り継ぐ

 大川小学校を襲った津波の高さは最大8.6m。海抜1m12cmの場所にある校舎が津波の渦に飲み込まれた悲惨さは残った校舎が物語っている。ほとんど手を加えないまま残され、震災遺構としての役目を果たす。四角い教室がなく扇型が特徴だった校舎は、内装が剥がれ、ガラスは割れ、外側だけ原型をとどめている。この日、訪れた人が手を合わせる姿があった。駐車場には宮城県外のナンバーも多く停まっていた。

 避難の大切さを訴える「大川伝承の会」の共同代表として、語り部活動をする鈴木さん。大川小学校に隣接する「大川震災伝承館」で、学校における防災や避難の重要性を訴え続ける。

 当初は震災の記憶を話すことには葛藤があった。「亡くなった多くの方や捜索活動について、口に出して話していいのか迷いました」と打ち明ける。語り始めると当時を思い出し、泣き出してしまったこともある。それでも、「後世に伝えてください」と震災の遺族などから声をかけてもらったことに、背中を押されたと振り返る。

震災伝承館で写真を片手に、校舎内の被災状況などを語る鈴木さん=2022年3月13日午前11時55分、石巻市の大川震災伝承館で、大森遥都撮影

 そんな鈴木さんが今、大切にしているのは「押し付けではなく気づきをつくる」ことだ。「『東京は安全だから大丈夫です』と言った東京の学生が先月来ました。『なぜ?』と聞いたら、『津波は来ないですから』と。でも『南海トラフ地震や首都直下地震で東京湾に津波が入ったらどうなるの?水が抜けるところがなく、水位は上がっていく一方だよ』と伝えると、学生は『えっ』って」

 日本に住む限り、災害に巻き込まれるリスクとは隣り合わせだ。鈴木さんは命を守るため訴える。「常日頃から防災のことを意識しておいてほしい。けれど、毎日は難しい。だから、どこかで災害があったときに自分の地域に置き換える。それでいい。自分の地域の防災に関して学んだり、防災に関する講演に参加したりして、『気づけるようにすること』が大切なんです」